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ものぐさにっき。

成分の99%は萌えで出来ております。
花さき山
こんなところに天才がいました。

この絵本をご存知の方はどれほどいらっしゃるでしょう。
かくいうワタシは特徴的な絵で表紙はしっていましたが、中身をきちんと読んだのは初めてです。
もう日本は国歌斉唱も国旗掲揚もしなくていいから、この「花さき山」を暗記すればいいんじゃないかな!
小学校の入学式も中学の文化祭も高校の球技大会も大学の卒業式も、全部花さき山の暗唱。なんて素敵。うっとり。

ワタシも花を咲かせるひとになりたい。
「花さき山」は人間が何か自分のことをひとつ我慢するたびに、山に綺麗な花が咲く、というお話です。
家族のために自分を二の次にして我慢すれば花が咲く。見ず知らずのひとに親切にしたり、兄弟を慈しんだりすれば花が咲く。
村を救うために誰かが命を落とせば山ができる。その山にもまた、人間の善意で咲いた花が溢れる。

…そんな世界になればいいな、そんな山と花が見える人間がいなくならない世界であればいいな。

そういった作者の方が子供たちに託した願いの絵本です。
花さき山の背景には戦後の日本と戦中に散っていったひとの尊厳などが含まれているので(明確に解説されているわけではありませんが、特攻隊などで戦死した方の指しているのではないかと、勝手に解釈しています)、そういう意味ですべてを肯定するわけでも、また今の時代に迎合していると思えるわけでもありませんが、難しい主張はさておき、”花を咲かせるひと”が確かにこの世界の、我々の周りのどこかにいて、そういうひとがいなくならないからこそ、この時代においてもまだ「善意」という言葉が残り、善意の輪が社会を形成する歯車の一輪となっているのだと思います。

このお話が出版されたのが60年代の終わり。ワタシなぞはまだ生まれていませんでしたが、高度経済成長のまさに只中で、作者のかたがこの絵本の構想に何年をかけたか判りませんが、ある意味、急速に成長する経済にあわせてひとの価値観や思想も戦後の時代からは大きく変わり、そういった変化に対する作者の方なりの警鐘の意味もあったのかな、と考えたりしています。
出版当時、作者の方は恐らく五十歳前後だったと思うのですが、大正生まれの作者の方が、戦中、戦後を経て、大きく変化する日本を見続け、そしてこの先に続くこの国の担い手である子供たちに、この話を頭の片隅にでもおいてくれたらいいなという気持ちでこのお話を書いたのだとしたら、それは多分、残念なことに彼の願った未来の形とは違う方向に、日本は向かっているのだと思います。
けれど、ワタシのようにこの本を知らずに身勝手な人間そのものに育ったひともいれば、この本を知らなくても花を咲かせ続けているひとも絶対にいるわけで、そういう人がいる限り、ワタシのような人間もまたひとの善意の素晴らしさに頭を垂れる日がこないとは誰にも断言できません。

あと、こんな小難しい時代背景の解釈なんて本当はどうでもいいことで、何より素晴らしいのが、大人や周りの人がだれも「あや」のみた「花さき山」の山姥の話を信じてくれなくとも、「あや」は花さき山の存在がなくとも、その後も善い行いをするのを、当たり前のようにやめることがなかったことだと思います。(ちなみに、「山姥」は、信じてもらえなくて逆に人間に絶望してしまった「あや」のもう一つの未来の姿ではないかと)
目に見えなくても、「花さき山」は「あや」の心の中にあって、心の中で自分自身にしか見えないからその山を花で多い尽くすのも、汚いゴミで汚してしまうのも自分次第。他人からは見えない心の中だから汚れているか綺麗にしているかは、まさに自分ひとりの問題です。
古きよき時代の願いを託した絵本と評価されることが多いように思いますが、個人主義といわれる今の時代にある意味迎合した考えではないかと。
でも、本や物語や作品はいつだって受け取り手の受け取り方次第ですもんね。

というようなことを一晩中考えていたので、今日はすこぶる寝不足です。
でもいい。ワタシは花をさかせるひとになる…!(思い込みの激しいタカヤマさん)
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